← すべての対談
Rencontre des Amis de Marcel Proust

ルイ・ド・ロベール(Louis de Robert):『Le Roman du malade

2026年9月17日 · Hôtel littéraire Le Swann

Archipoche社より「Le Domaine」叢書の一冊として刊行されたルイ・ド・ロベール(Louis de Robert、1871-1937)の『Le Roman du malade』新版を機に、同叢書を監修しこの忘れられた小説を発掘したオリヴィエ・フィリッポナ(Olivier Philipponnat)と、この新版に序文を寄せたジェローム・バスティアネッリ(Jérôme Bastianelli)が、Société des hôtels littérairesの会長ジャック・ルテルトル(Jacques Letertre)と語り合いました。1911年、フェミナ賞の前身にあたる賞を著者にもたらしたこの小説は、『失われた時を求めて』の歴史において特別な位置を占めています。ルイ・ド・ロベールはプルーストの最も初期の文学上の友人の一人であり、『スワン家のほうへ』の校正刷りを最初に読んだ人物でもありました。

ジャック・ルテルトル — Hôtel Littéraire Le Swannへようこそ。今夜のテーマは私にとって特に思い入れの深いものですが、少し心苦しい話でもあります。数年前、パリの大手古書店から、ルイ・ド・ロベールがプルーストに送った『Le Roman du malade』の献本と、ルイ・ド・ロベールが書き込みをした『スワン家のほうへ』の校正刷りを購入しないかと持ちかけられました。私はあまりに長く迷ってしまい、結局それらは私のコレクションにはありません。悔やんでも悔やみきれない思いです。

今夜お越しいただいた二人のゲストに感謝申し上げます。『Le Roman du malade』を新版として世に送り出したオリヴィエ・フィリッポナ、そしてSociété des Amis de Marcel Proust会長であり、その序文を執筆したジェローム・バスティアネッリです。その序文は要するに、この題名がひどく出来の悪いものだと説明することから始まっています……

編集者への最初の質問です。もしルイ・ド・ロベールがプルーストと知り合っていなかったとしても、この本を新版として出されたでしょうか。

オリヴィエ・フィリッポナ — プルーストだけではありません。ルイ・ド・ロベールの友人たち――男女を問わず――すべてに興味を惹かれたのです。1911年にこの本が刊行されたとき、いやそれ以前、『フィガロ』紙に連載されて発見されたときから、彼らは彼に極めて称賛に満ちた手紙を送っていました。

私がルイ・ド・ロベールに出会ったのはほとんど偶然でした。パブリックドメインとなった作品を扱う叢書「Le Domaine」のための題材を探していたのです。古書店に『Le Roman du malade』を注文しました。届いた本は古い版で、刊行時にルイ・ド・ロベールに宛てて送られた手紙が収められていました。もちろんお世辞の部分を差し引いて考える必要はありますが、これらの手紙、とりわけプルースト、モンテスキュー(Montesquiou)、アンナ・ド・ノアイユ(Anna de Noailles)、ピエール・ロティ(Pierre Loti)からのものには、本物の共感と誠実さが流れています。

それから小説そのものを読みました。題名は魅力に欠けるかもしれませんが、心理描写の繊細さと、扱われているテーマの数々に強い印象を受けました。それらの多くはプルーストのテーマ――嫉妬、病、死、愛――と重なり合うものです。

ジャック・ルテルトル — ではプルーストの話に戻りましょう。彼はどのような経緯でルイ・ド・ロベールと出会ったのでしょうか。

ジェローム・バスティアネッリ — 二人の出会いは、いわば四つの場面に分けて語ることができます。

第一の場面は1890年代初頭。プルーストとルイ・ド・ロベールはマルゼルブ大通りですれ違いますが、この出会いに本当の続きはありません。

第二の場面。ルイ・ド・ロベールはピエール・ロティの秘書となります。1896年頃、ロティの書斎で未裁断のままの『楽しみと日々』を見つけます。数年前に出会ったあの青年のことを思い出し、本を読んでみると、たいへん気に入ります。

第三の場面。二人はエドモン・セー(Edmond Sée)の仲立ちで、パリのモンソー公園で偶然再会します。そこでドレフュス事件への共通の関心を見出し、二人ともドレフュス派として情熱的にこの事件を追います。その後ルイ・ド・ロベールは重い病に倒れ、しばらく世間から退いて暮らすことになり、二人は互いに疎遠になります。

そして第四の場面。プルーストは、大いに感嘆した『Le Roman du malade』の刊行後に彼と連絡を取り戻します。こうして『スワン家のほうへ』の刊行をめぐる二人の往復書簡が始まるのです。

ジャック・ルテルトル — ではその当時、二人のうちより有名だったのはルイ・ド・ロベールだったのですね。

オリヴィエ・フィリッポナ — そうです。彼はすでに何冊かの本を出版していましたが、『Le Roman du malade』は彼に真の名声をもたらします。1911年、後にフェミナ賞となる賞を受賞します。その後も非常に多くの著作を出版しますが、その多くは今日ではほとんど忘れられています。ほかにも、親交のあった数多くの作家たちについての文学的回想録も残しています。

ジェローム・バスティアネッリ — そしてこの立場のおかげで、彼はプルーストを助けようと試みることができました。とりわけOllendorff社から出版させようと試みます。しかし二人のやり取りの大半は原稿そのものと、ルイ・ド・ロベールが友人に与える助言をめぐるものでした。もっともプルーストは、特に題名に関しては、必ずしもその助言に従いませんでした。

ルイ・ド・ロベールは『スワン家のほうへ』という題名を嫌っていました。彼は要旨、こう書き送っています。本を開いて、最初に目についた一文を取ればいい、そのほうがまだましだ、と。二人の往復書簡の中では、ほかにも複数の題名が検討されています。

オリヴィエ・フィリッポナ — ルイ・ド・ロベールは回想録の中でその一覧を挙げています。『Avant que le jour soit levé』『Jardin dans une tasse de thé』『Le Passé intermittent』『Les Colombes poignardées』『Le Septième Ciel』……

ジェローム・バスティアネッリ — それに『Dans le jardin de M. Swann』も。しかしプルーストは譲りません。『スワン家のほうへ』になるのです。

二人の間には、脚注をめぐるかなり愉快なやり取りもあります。プルーストはラスキン(Ruskin)の翻訳から来たばかりで、自分の小説にも脚注を入れることをまだ考えていました。ルイ・ド・ロベールはそれを思いとどまらせます。だから私たちは、もしかすると彼のおかげで、『スワン家のほうへ』が脚注を免れたのかもしれません。

オリヴィエ・フィリッポナ — 削除の問題はより複雑です。ルイ・ド・ロベールがプルーストに、文章を削らないよう勧めたとよく語られます。しかし『Comment débuta Marcel Proust』の中で、彼はむしろ逆のことを説明しています。あまりに分厚い一冊は、「まさにそれを最もよく理解し、最も高く評価しうる人々」を遠ざけてしまう危険がある、と。そしてこう書いています。「ついに彼は、幾度もためらった末、自分の本を532ページで閉じることに同意した。」

つまり、それでもなお彼がプルーストに分量を減らすよう働きかけたようなのです。

ジャック・ルテルトル — 書き込みのある校正刷りは、その作業の跡をたどることを可能にしてくれます。私が買いそびれたことをこれほど悔やんでいる例の本には、「Mon chéri」で始まるプルーストの書き込みがありました。私たちはこの「Mon chéri」が誰に宛てたものか、長らく頭を悩ませました。ルイ・ド・ロベール宛てだろうと思っていたのですが……ナタリー・モーリアック(Nathalie Mauriac)が、実はマルセルの弟であるロベール・プルースト(Robert Proust)に宛てたものだったと教えてくれるまでは。彼にもこの校正刷りが渡されていたのです。

オリヴィエ・フィリッポナ — 出版社との関係について言えば、プルーストはまずファスケル社(Fasquelle)から断られ、自費出版を考えていました。ルイ・ド・ロベールはその方法を思いとどまらせます。彼自身、Ollendorff社の社主アルフレッド・アンブロ(Alfred Humblot)から別の小説の出版を持ちかけられており、その機会にプルーストのことを話します。

アンブロは原稿を読み、後に有名になるこんな返事を送ります。「親愛なる友よ、私は少々鈍いのかもしれないが、ある紳士がベッドの中で寝返りを打ちながら眠りにつくまでの様子を描写するのに三十ページも費やせるとは、どうしても理解できない。」

ルイ・ド・ロベールは最初、この手紙をプルーストに隠しておくほうがよいと判断します。しかしプルーストは結局それを知ることになり、激怒します。

ジャック・ルテルトル — なぜプルースト愛好家がルイ・ド・ロベールに関心を持つべきか、その理由はお話ししました。ではここで本そのものについて語りましょう。もし「あらすじ」を語るとしたら、どのようにおっしゃいますか。

ジェローム・バスティアネッリ — 私は序文の中で、『Le Roman du malade』は題名がよくないと書いています。なぜならこれは、完全な小説でもなければ、病に還元されてしまう男の物語でもないからです。

完全な小説とは言えないのは、物語が「La Sagesse(叡智)」や「La Jalousie(嫉妬)」といった題を持つ瞑想的な章によって定期的に中断されるためです。ルイ・ド・ロベールはそこでほとんど物語を離れ、病、死の接近、身体、愛、あるいは欲望について考察します。

これは実のところ、プルースト自身が数年前にアンナ・ド・ノアイユに宛てて書いた問いを思い起こさせます。プルーストは、小説を書くべきか哲学的エッセイを書くべきか迷っていると書いていました。プルーストがこの二者択一をどう解決するかは私たちの知るところです。彼はいわば両方をやってのけるのです。ルイ・ド・ロベールもまた、別の仕方で、より直接的に、小説と瞑想を合流させようとしています。

そして最後に、これは単なる「病人」の小説ではありません。この登場人物は特異な経験を生きています。すなわち、死が近づくことと、死ぬ運命にあると信じ込んでいる病がもたらしうる新たな明晰さです。

オリヴィエ・フィリッポナ — 本物の恋愛の筋もあります。四人の登場人物による一種の劇と言ってもよいでしょう。

語り手のアンドレ・ジルベール(André Gilbert)は、明らかにルイ・ド・ロベールに非常に近い人物です。彼と同じく結核を患っています。まずダヴォス(Davos)に滞在し、外国人墓地の散策で、故郷を遠く離れて亡くなった若者たちの墓を目にします。その後、少し体調が回復すると、カンボ=レ=バン(Cambo-les-Bains)をモデルにした保養地ヴァル=ロラン(Val-Roland)で母親のもとへ向かいます。

そこで友人ポールと再会し、ジャヴォット(Javotte)と出会います。おそらく本書の中で最も生き生きとした人物ですが、同時に最も不安定で軽薄な人物でもあります。彼女は二人の男の間で揺れ動きます。彼女がこの瀕死の男を本当に愛しているのかどうかは長く判然としません。一方の男は健康を犠牲にしてまで彼女に恋をし、母親は嫉妬深くこの若い女性を遠ざけようとします。

ポールについては、最近興味深い事実を発見しました。十三年後、ルイ・ド・ロベールは『Paroles d'un solitaire』を出版し、これを『Le Roman du malade』の自然な続編だと自ら述べています。この本はエドモン・ロスタン(Edmond Rostand)と親しかったポール・フォール(Paul Faure)に献呈されており、ルイ・ド・ロベールは、自作のポールがまさにこのポール・フォールであると明言しています。したがって、この本の背後には、ルイ・ド・ロベール、ポール・フォール、そして私たちの知らない一人の若い女性との、本物の三角関係が隠されているのではないかと考えることもできるでしょう。

ジェローム・バスティアネッリ — いくつかの文学的な類縁性が思い浮かびます。自らの死が近づくのを見つめる男についてのこの考察には、『イワン・イリイチの死』に通じるものがあります。スイス滞在という点では『魔の山』にも通じるものがあります。そしてジャヴォットは時にアルベルチーヌを思わせます。同じようにつかみどころがなく、軽やかで、移り気な性格。彼女は他人の感情をもてあそびますが、おそらく自分自身、自分が何を感じているのか正確には分かっていないのです。

オリヴィエ・フィリッポナ — 私も『イワン・イリイチの死』を思い浮かべました。自らが死を宣告されていると知る者が、墓の内側から眺めるあの人生です。もう一つ、はるかに後の作品にも近しさを感じます。シャーンドル・マーライ(Sándor Márai)の『妹』です。世界が部屋一つに縮小してしまった病人の物語で、病によって彼はごくささやかな生の兆しにも異常なまでに敏感になっています。

ジェローム・バスティアネッリ — この死の近さは、私たちを直接プルーストへと連れ戻します。1920年、『ラントランジジャン』紙が、もし世界が終わると分かったら何をするかと尋ねた際、プルーストはこう答えています。そのような確信は私たちの存在をまったく変えてしまうだろう、旅をしたい、友人たちに再会したい、大切にしているあらゆるものを味わいたいと思うようになるだろう、と。しかし破局が予告されていないために、私たちはそのすべてを翌日へと先延ばしにしてしまうのです。

これは『Le Roman du malade』で起きていることに非常に近いものです。死が近づくと、物事は突如として並外れた味わいを帯びます。ありふれたものに思えていたことが、それを失うと知った瞬間から、この上なく貴重なものになるのです。

ジャック・ルテルトル — プルーストとのもう一つの共通点。医者たちについてです……

ジェローム・バスティアネッリ — 『失われた時を求めて』も『Le Roman du malade』も、医学の道を志したくなるような作品では決してありません!ルイ・ド・ロベールの作品において、医者たちはせいぜい感じのよい人物として描かれるにとどまります。彼らは病の進行に寄り添うだけで、実際にそれに働きかける力はありません。アンドレ・ジルベール自身も、医学にはもはやほとんど期待していません。

ジャック・ルテルトル — 巻末に収められた手紙の中で、コレット(Colette)のものは作家に対してかなり厳しいものです。彼女はこう書いています。「あなたは決して『Le Roman du malade』を超えられないかもしれません。」出したばかりの本をこのように称賛されるのは、これから先のものはすべてこれより劣るだろうと告げられるにほとんど等しいことです!

オリヴィエ・フィリッポナ — ええ、恐ろしい一文です。しかし彼女はこうも書いています。「誰もこれを超えてはいませんし、いったいどれだけの人がこれに到達したというのでしょう。」もう一通、私を大いに考えさせた手紙があります。アンナ・ド・ノアイユのもので、要はこう問いかけています。「この前例のない本は、そもそも一冊の本なのでしょうか。」

この問いは、題名についてジェロームが序文で提起している問いにつながります。『Le Roman du malade』とは正確には何を意味するのでしょうか。それは病人の物語なのでしょうか。それとも、病だけが書くことを可能にする小説、病が生み出す種類の文学なのでしょうか。この題名は、見かけよりもはるかに曖昧なものなのかもしれません。

ジェローム・バスティアネッリ — ええ、まさにその通りです。これが「病人の物語」であるのは、単に病人の物語を語っているからだけではなく、病が病人に書かせる物語だからです。

この本には、死と身体についての非常に美しいページがあります。アンドレ・ジルベールはとりわけ、自分が死んだ後にこの身体がどうなるのか、まだ自分のものであるこの肉体を変えていくであろう緩やかな崩壊の過程を、想像しようとします。

彼はまた自分自身の埋葬の様子も想像します。そして彼を打ちのめすのは、埋葬そのものの観念というよりも、それに立ち会った後、最後には墓を後にして家に帰らねばならない母親の姿なのです。私はここに、極限まで突き詰められたプルースト的な場面をほとんど見て取ります。もはや「おやすみのキス」の後で部屋を去る母親ではなく、墓を去る母親なのです。自分自身の死を想像するときに彼を苦しめるのがまさにこのことであるというのは、たいへん胸を打つものです。

オリヴィエ・フィリッポナ — 母親は実際、非常に存在感のある登場人物であり、嫉妬こそが四人の人物を結びつけている感情なのかもしれません。二人の男は互いに嫉妬し合い、母親は本物の母性的な嫉妬を抱いてジャヴォットに息子の部屋への出入りすら禁じます。ジャヴォット自身も、時に自分が呼び起こす愛情に対してほとんど嫉妬しているかのように見えます。

また、非常に強い孤独感と意思疎通の不可能性も存在します。とりわけ、語り手がパリ近郊に戻り、二人の間に距離が生まれた後、ジャヴォットに宛てて想像する手紙にそれが表れています。これは、パトリック・モディアノ(Patrick Modiano)がエマニュエル・ベール(Emmanuel Berl)との対談の中で『失われた時を求めて』中最も短い一文だと紹介している言葉を思い起こさせます。「Chacun est bien seul(誰もが本当に一人きりだ)」。それが本当に最も短い一文かどうかは分かりませんが、ルイ・ド・ロベールのこの本には完璧に当てはまるように思います。

ジェローム・バスティアネッリ — それでもプルーストには「Zut, zut, zut(ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ)」がありますよ!

ジャック・ルテルトル — ピエール・ロティへの献辞について話しましょう。

オリヴィエ・フィリッポナ — ロティはルイ・ド・ロベールの経歴において非常に大きな役割を果たしました。この献辞は、実のところ本書の調子をただちに伝えています。

「読書に軽い気晴らしを求める人々は、私のもとへは来ないだろう。しかし、深刻な魂を持つ人々、秋を、静寂を、瞑想を、孤独を好み、時に死について思いを巡らせる人々、そうした人々は、もし私の本が彼らの手に渡ることがあれば、あなたと同じように、急がずに、それにふさわしい思いを抱きながら読んでくれるだろう。彼らはこの本を愛し、そして私を愛してくれるだろう。」

この最後の一節、「私を愛してくれるだろう」は驚くべきものです。ルイ・ド・ロベールの伝記に関心を向けると、脆く、病がちな一人の男の姿が浮かび上がります。彼は、愛されることへの非常に強い欲求を示していたように見えます。

しかし、『Le Roman du malade』がまったく病的な本であるという印象を与えるのは、決して適切ではないでしょう。私をまず魅了したのは、ルイ・ド・ロベールの文体です。それは簡潔で、流れるようであり、時には自然描写において非常に美しい詩的な筆致を見せます。それこそが、結局のところかなり薄い筋書きよりも、はるかに私を引きつけたものでした。そしておそらくそれこそが、プルーストを魅了したものでもあったでしょう。この文体の詩情と、文章そのものの持つ文学的な質の高さです。

ジェローム・バスティアネッリ — 確かに軽い本ではありませんが、重苦しい本でもありません。非常に心地よく読み進められ、時にプルーストを思わせる美しさに出会うこともあります。

とりわけ私が驚いた一致があります。ルイ・ド・ロベールがピエール・ロティのもとで発見した『楽しみと日々』の中で、プルーストはこう書いています。「欲望はあらゆるものを花開かせ、所有はそれを萎れさせる。」

ところが『Le Roman du malade』にはこうあります。

「私たちが失うものすべてを、私たちの魂は呼び戻し、再び手にしたいと望む。私たちを失望させたり平凡だったりする対象が、私たちから遠ざかる瞬間に驚くほど素晴らしいものに変わることの、なんと多いことか!とりわけいくばくかの想像力に恵まれた者たちは、この残酷な戯れの犠牲となる。それは、あるものを所有した途端に小さくし、もう持たなくなった途端に大きくするという戯れなのだ。」

この着想は、二人の作家のもとにそれぞれ独立して生まれるほど十分に普遍的なものだったとも考えられます。しかし同時に、ルイ・ド・ロベールが読んで感嘆していた『楽しみと日々』が、ここに何らかの痕跡を残したのではないかと考えることもできます。いずれにせよ、この一致は注目に値します。

会場からの参加者 — ルイ・ド・ロベール自身について、その家族や生い立ちについて、もう少し詳しく教えていただけますか。

ジェローム・バスティアネッリ — ルイ・ド・ロベールは1871年3月、マルセル・プルーストより数か月早くパリに生まれました。十二歳ほどのときに父を亡くし、虚弱な体質のため比較的早くに学業を中断します。エジソン社の社員となりますが、演劇と文学のことしか夢見ていません。友人とともに最初の戯曲を書き、その後『ジル・ブラス』紙に記事を載せることに成功します。

ピエール・ロティとの出会いは決定的なものでした。彼はロティに近づき、自分の敬愛の念を伝えます。ちょうど個人秘書を探していたロティは、彼を連れて南西部へ向かいます。ロティの書斎で彼は『楽しみと日々』を発見するのです。二人はその後も親しい関係を保ち続け、それが『Le Roman du malade』の献辞にもつながっています。

ルイ・ド・ロベールは小説を出版し始め、イヴェット・ギルベール(Yvette Guilbert)やジャンヌ・グラニエ(Jeanne Granier)との、いくつかの不幸な恋愛も経験しますが、その後重い病に倒れます。自らの登場人物であるアンドレ・ジルベールとは異なり、彼は回復します。彼は執筆を続け、後にサノワ(Sannois)に居を構えます。そこで、彼より三十歳若い一人の若い女性が、家族の所有地の一部を借りにやって来ます。今度は物語はよい結末を迎えます。彼は彼女と結婚するのです。ルイ・ド・ロベールは1937年に世を去りました。

オリヴィエ・フィリッポナ — 付け加えるべきは、彼がこの時期には文学界に完全に受け入れられていたということです。エドモン・ロスタン、ゾラ(Zola)、アルフォンス・アレー(Alphonse Allais)、オクターヴ・ミルボー(Octave Mirbeau)、ジュール・ルナール(Jules Renard)と交流がありました……

ジェローム・バスティアネッリ — ええ、ゾラへの彼の敬愛の念は非常に強く、ある日、彼に会うためにパリからメダン(Médan)まで、およそ三十キロメートルの道のりを徒歩で移動したほどです。これは、単に病がちな作家という印象をいくらか修正してくれます。ルイ・ド・ロベールもまた、並外れた情熱と熱狂を抱くことのできる人物だったのです。

オリヴィエ・フィリッポナ — 彼の回想録は、この並外れた文学的社交性を物語っています。とりわけ1928年には『De Loti à Proust. Souvenirs et confidences』を出版しますが、これもまた、間違いなく再発見に値する作品でしょう。

また、彼がドレフュス派の人々と近しい関係にあったことも忘れてはなりません。とりわけシャルパンティエ・サロン(salon Charpentier)に出入りしており、プルーストをピカール大佐(colonel Picquart)に紹介したとも言われています。これは、当時のパリの文学世界における彼の位置を物語るものです。

会場からの参加者 — プルースト没後百年を記念して開催されたシンポジウムの論集の中で、ピラ・ワイズ(Pyra Wise)がルイ・ド・ロベールについて非常に綿密な研究を発表していることも指摘しておくべきでしょう。

ジェローム・バスティアネッリ — まさにその通りです。このシンポジウムは、ジャン=イヴ・タディエ(Jean-Yves Tadié)が創始した一連の集まりの一環として位置づけられるもので、その論集は最近Honoré Champion社から刊行されました。ピラ・ワイズの研究のおかげで、ルイ・ド・ロベールとプルーストの関係について、さらに深く踏み込むことができます。

会場からの参加者 — 病についてのこうした文学のお話をうかがっていて、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)の『La Doulou』を思い出しました。

オリヴィエ・フィリッポナ — テキストの性質はかなり異なります。『La Doulou』は、おそらく刊行を意図していなかった覚書からなり、ドーデの死後に刊行されたものです。しかしこの比較は興味深いものです。いずれの場合も、病は単なる主題にとどまりません。それは自己自身と世界を観察するための地点となるのです。

ジャック・ルテルトル — それでは、オリヴィエ・フィリッポナとジェローム・バスティアネッリに感謝を述べるばかりです。この対談が、皆様に『Le Roman du malade』を読んでみたいと思わせるものであったなら、これに勝る喜びはありません。この本はさほど長くはなく、非常によく書かれています。そしてその題名にもかかわらず、思っているよりもずっと親しみやすい一冊なのです。